随所に主となれ
今の私が置かれている状況は、自分で選びに選んで流れ着いた感覚がすごく強い。言ってみれば、自分の人生は失敗も含めてコントロールしてきた、または少なくともコントロールしようとしてきた感じがあります。
大事なのは、今現在の状況が他人に抜きん出ているか、思う通りにいっているかどうかではなくて、自分で今置かれている状況を決めたかどうか、人生は誰のせいでもないと言い切れるかどうか、その辺だろうと思っています。
via: 為末大オフィシャルサイト「侍ハードラー」
うん まさに その通りだと思う。
やっばり大事なのは、
他人に抜きん出ているか、思う通りにいっているかどうかではなくて、
自分で決めたかどうか、人生は誰のせいでもないと言い切れるかどうか。
自分は、ノンコントロール志向であるけれど、
それは、他者または、客観的な自身に対する制御を
ゼロないしは最小限にした方が良いという考え方であって、
もちろん、主体的自身に関して言えば、
自分が意思決定している意識を持たない限り主体たり得ないわけで、
「随所に主となれ」を旨としているつもりだ。
とは言うものの、
常に主体性を持って、自身を制御し続けることは難しくて、
ついつい他力に期待したり、責任逃れをしようとしてしまう。
他者の意見に従って行動して、うまくいかなかったとき、
その失敗を他者のせいにできるから ちょっと安心...という発想は、
実は、なんら効果を得られないまま失策に終わる。
だれかに責任を押し付けたところで
結局、未達の事実と嫌な思いが残されるだけ。
しかし、実際には、
他者の意見に従うという行動は、自身が決定したことであり、
ちょっとズルイ考えを思いつき実行したのも自分なのだ。
もちろん、制御不能な偶発的な事故もあるけれど、
そういう事態が起こり得ることを予測しなかったことや
予測していても対策をしなかったのは、自分自身が決めたこと。
そういう日常生活の中で、
為末さんのように明確にコントロールしてきた感を持つことは
なかなかできない というのも現実やねんな。。。^^;
走るも走らないも自分の意志、乗り越えるべきハードルを定めるも定めないも自分の意志。ゴールした時の結末は自分ではコントロールできませんが、スタートは自分でコントロールできます。いや、本当の意味ではスタートを切るかどうかは自分でしかコントロールできません。
少なくとも自分の身体だけは自分の思い通りに動かしていいのです。そして、同じように人生も自由にしていいのだと思います。なんとなくそういう多様性を許容する空気が日本に必要かなと思いました。
via: 為末大オフィシャルサイト「侍ハードラー」
ちょっと話しが逸れてしまうけれど...
人の話を聞かず自分勝手な行動をする人や
それができそうにもない幼児なんかは
かなり自分自身をコントロールしているかも知れない。
そう言えば、こどもって、
勝手なことやって失敗したら
泣いて文句わめいて悔しがるけれど
後をひくような恨みつらみはないよな~(^^ゞ
そういうことは、高齢者にも言える知れない。
老いては子に従え なんて言うけれど、
ウチのお婆ちゃんは、ちっとも子の言うこと聞かない。
勝手なことやって、失敗して迷惑かけて
落ち込んで反省なんかしたりしているけど、
結局、そんなのは ほんの一時だけのこと。^^;
だけど、それって
自分自身をコントロールしているだとしたら、
そういう生き方ができているんだとしたら、
そういうことを認めることのできる人になりたいな。
いや なんとなく...
なんでも言われた通りに動いてくれたら
どんなに楽になれるだろうって思うことはあるけれど、
そうなっちゃったら もう...
ホントに生きた屍状態なんだろうね。
勝手なことをやっているうちは
お婆ちゃんも自分の意志で生きているということ。
少し弱ってきていても、まだ元気な証拠。
勝手なことやって、失敗して迷惑かけて
活き活きと生きているんやな...と思うと、
なんか随分、楽な見方ができそうな気がしてきた。
随所に主を認めること 即ち 自ら随所に主となす
...などと、
思ったり... 思わなかったり... うん 思ってる!
●1年前の今日:爽やかな朝