母の日に母からもらったプレゼント
#母の日
— 山田ズーニー (@zoonieyamada) May 9, 2021
故郷の母に電話をしたら、ラジオで「みかん」が出て来る歌詞の歌を聴いて、母の母(私にとってのおばあちゃん、もう亡くなった)のことを想い出したらしく、珍しく母が泣いた。親孝行ができなかったと悔やんで泣いた。泣いて、想いが言えて、母は気が晴れたよう。電話してよかった。
20年以上にわたって「聴く」ということを意識して実践してきた。
身近な人から初めて会う人まで多くの方々の声を聴かせていただき、その難しさに打ちひしがれる思いをしたこともあったし、まさに天命だと確信させられる成果や歓びも経験してきた。
しかし、取り組み始めた頃のストイックさに比べると、最近は進化成長への追求が鈍っていたように思う。
そんなことを思い知らされるような課題が少しずつ顕れてきている。
それは急を要する大問題ではなく、じわりじわりと蝕んでいくかのような気づきにくい小さな違和感のようなもの。
油断と慢心を自覚せざるを得ない。
若い頃は全国各地を巡って経験を積んだり、職場で実践的に活用してみたり、さまざまな場面で「聴く」を磨いていたが、最も厳しい修行となったのは実の母親の話を聴くことだった。
どんな人のどんな話でも深く聴き込むことができるようになった段階でも、肉親の声を素直に受けとめることは苦手にしていた。
それでも長い時間と少なからぬ葛藤や消耗を乗り越えて、少しずつではあるが母の話を聴くことができるようになってきたのだが…
昨年からの世界規模での感染症騒動によって、施設に入居している母とは面会謝絶となってしまった。
もちろん、電話で話をする機会はある。
とはいえ、ゆっくり時間を気にせず話を聴くことはできない。
しかも、施設の敷地外への外出を禁じられストレスは大きくなる一方であろう入居者たちの声を聴くことこそ、自分が果たすべき役割ではないかと思うにつけ焦燥感がつのる。
が、ふと気がついた。
このところ疎かにしていたのは聴くことへの追求や肉親の声を聴くことだけではなく、実は自分自身の心の声を聴くことではなかったかと。
自分事ではあるが、まさに図星だった。
それに気づくだけで、あちこちの淀みが澄んでいくのを感じる。
これからは、もっと気楽に、深く、多くの人の声を聴くことができると思う。
今日は母の日。
友人のお店で見つけたストールを施設に届けた。
洋服にも着物にも合いそうな母好みのデザイン。
ちょっと派手な気もするが、昨今の生活の中ではこれくらいの方が華やかで元気が出る。
差し入れは玄関先で職員さんに預けて渡してもらう。
もちろん母との会話はできない。
夕方の電話で気に入ってくれたことを伝えてくれた。
聴く側だったはずの自分の心の声を、母に聴いてもらった気がした。
・・・などと、
思ったり...思わなかったり...
では、お気楽に...(^^)/~~~

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