「やれること」を「やる」
・このごろ、あらためて、つくづく、しみじみ思う。
「やれることをやる」というのが、なにより大事だ。
そりゃそうだと思うかもしれないけど、
「やれることをやる」をやれる人が、実は少ないんだ。
みんなが憧れたりする人、名人達人と言われるような人、
いつもいいことをやってる人、すごい技術を持ってる人は、
みんな「やれることをやる」を、きっちりやってきている。「やれること」は、「やれる」と思えるから、
「いつでもやれる」と考えられやすい。
でも、人は「いつでもやれること」をなかなか始めない。
そして、「やれること」は、ずっと「やれる」ことなのだ。
それでも、「やれること」を続けてる人はとても少ない。昔から、このことについてはみんなが伝えてきた。
ちりが積もると山になるんだぜ、だとか、
千里の道も一歩からなんだよ、だとか、
雨だれがやがて岩に穴をあけてしまうぞ、だとかね。
ちりはどこにでもいくらでもあるものだし、
一歩歩くことならかんたんにできるし、
雨だれの一滴なんて気に留めてもいないだろう。
そういう「やれること」を、ほんとに「やる」ってことが、
(いまから間違った言い方をしますが→)
「ほんとにむつかしいんだよねぇ!」
(←これが、まちがった言い方です)
実際にはむつかしくないんですよね。
だってそれは「やらない」だけで、「やれること」です。
つまり、むつかしいことじゃないんです。ちょっと頭よさそうな人が「愚直にやるだけです」
とか言いたがりますけどさ、
「ちり」や「一歩」や「雨だれ」さんは、
そんな「愚直」みたいなことばは使わないだろうな。
愚かでも、真っ直ぐでもないんだもの、
「やれること」を「やる」だけのことなんだから。「やれること」を「やる」。
ほんとうに「やりたい」なら、それをいますぐ「やる」。
「人生のコツ」みたいなことを、人は知りたがるけれど、
どんな「コツ」よりこれなんだよ、と思うのだ。今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
あらゆるものごとを「むずかしくないこと」に解体するのだ。via: 今日のダーリン 2022/05/06
久しぶりに会った同級生と久しぶりの外飲み。
楽しい時間はアッという間に過ぎて帰路につく。
思ったより酔が回っていたせいで乗り越した。
折り返しの電車には乗らず、一つ先の駅から歩いて帰る。
酔い醒ましに夜風に吹かれて歩くのも悪くない。
となるはずだったのだが、
果たして・・・

どこかで親指をぶつけてきたらしい。
昨晩は大して痛みを感じていなかった。
が、一夜明けるとそれなりに痛い。
しかも明らかに腫れている。
不幸中の幸いか、今日はGWの谷間の平日。
近所の整形外科で診てもらう。
骨には異常はないものの、完治には時間がかかりそう。
というわけで左手の親指が使えません。
たった1本だけの不具合。
しかし、生活への影響は予想以上に大きいと思い知らされる。
いつもなら「できる」ことが「できない」。
誰にでも「できる」ことが「できない」。
まさに「失って初めて気づく大切なこと」。
いつ、そうなるのかなんて誰にも判らない。
・・・などと、
思ったり...思わなかったり...
では、お気楽に...(^^)/~~~
- ●1年前の今日:
- いつまで続く? こどもの日